妻として母として激しく生きた女帝の一生

現代の一夫一妻制とは異なり、明治以前の天皇は確実に跡継ぎを残すため、複数の妻を持ちました。

妻としては、わが身に天皇の寵愛を得、わが子に皇位を継がせたいと願うのは当然のこと。

女帝・持統天皇の一生は、まさに天皇の妻として、母として激しく生きた一生でした。

 

政変の渦に翻弄されて

 

大化の改新の年645年、持統天皇、幼名・鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は、父・中大兄皇子と、

蘇我一族の血をうけた母・遠智娘(おちのいらつめ)との間に生まれます。

政変相次ぐ七世紀後半の世、鸕野讃良皇女も幼いころから波乱に満ちた道を歩んできました。

 

鸕野讃良皇女が五歳のとき、母方の祖父が、父によって滅ぼされます。このことにショックを受けた母は、発狂死。

 

母亡き後、まだ十三歳のときに、父の政略で叔父にあたる大海人皇子に嫁がされます。

結婚から世年後に草壁皇子を出産。

 

父、天智天皇の皇位継承争いから大海人皇子が身を引いて吉野へ下り、

翌年に決起して壬申の乱を起こしときには、夫・大海人皇子と行動をともにします。

 

この時期は、苦難続きながらも、ただ一人の妻として夫を独占できたという意味で幸せだったかもしれません。

 

 

すべてはこの皇位継承のため

 

壬申の乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇として即位し、鸕野讃良皇女は皇后となります。

 

彼女は草壁皇子の皇位継承者としての地位を確実なものにするべく、夫・天武天皇が亡くなると、

大津皇子を謀反の疑いで処刑するなど、さまざまな策を講じます。

ところが、草壁皇子は病死。

そこで、草壁皇子の子・軽皇子が皇位に就くまでの間、自らが天皇として即位し、女帝時代を開きます。

 

天武天皇の政治を引き継ぎ、諸制度の整備を進め、律令国家の確立に尽力した持統天皇。

 

彼女が築いた藤原京から真南の見晴らしのいい丘に築かれた陵墓に、天武・持統ふたりの天皇が併せて葬られています。